思考履歴

あなたの時間を無駄にする、自分のためのブログ。

完全に壊れていた。

特にここ数日間、1ヶ月前に差し迫ったイベントの準備で身も心もボロボロになっていた。
何より堪えたのは、まわりにいる人たちがこの企画でどんどん不幸になっていることだった。
お金もなくなる、時間も取られる、現実と希望の狭間で苦悩する。

それらってやりたいことのために多少の犠牲を払ってでもやろうとすることだから、やりたいことでしょう。
でも、やりたくない状況だった。

精神的に壊れていた。
犠牲を払ってでもやろうとするが、何かしら問題があれば担当者の責任、自分は関係ないと言わんばかりの塩対応。
完全にバカでガキだった。

まるでヱヴァQを観終えた後の喪失感が漂っていた。
自分のやりたいことに巻き込まれた人たちがどんどん犠牲になっていく。
喪失感と虚無感が完全に心を支配していた。


それに比べて、これまで出会ってきた大人の人たち(特に社長さんたち)は
「面白い」組織空間を創り出してきた方たちばかりだった。
そういった人たちの考え方は「面白い」を大切にしていた。

一方、自分は理論をガチガチに固めて「なぜ、これをしなければならないのか」という理論で責めていた。
そうすることで何がやりたいのか、自分の中で見失っていたのだと思う。
義務感と責任感、これらに押し潰されて自分は壊れていった。

逆にやりたかったことはなんだろうか。
やっぱり、こんな状態でもやりたかった元々の気持ちっていうのは忘れていなかった。
本当にやりたかったことはこんなことだろうか。
自分ってこの程度だったのだろうか。

いや、まだまだいける。
まだ頑張っている仲間がいる。
期待してくれている人もいる。

もっと前へ、もっと深く、もっと強く進んでいかなければならない。
もっと優しく人に接して、もっと面白く世界観を変えて、もっと自分の描く未来像を確かなものにしていきたい。

そう思ったときにやることが、いっきに道がひらけた気がした。
なぜこれをやっているのか、どのようにしたらいいのか、何をやろうか、すべてが一気に目の前に現れたのだった。

(本稿は2016/8/12 23:29:51に作成されたものです)

人を傷つけることがこわい

「自分は人を傷つけたくない」という考え自体が余計な考えであって、その考えが根底にあるとき「どうすればいいか」と考えるのは時間の問題。そこで得るものは、その場しのぎでしかなく、本質的な回答ではない。
「人を傷つけるか、傷つけないか」という話ではなく、どうすれば楽しめるかと考えるだけで世の中への見方は180度変わったものになる。

(本稿は2016/10/25 23:06:49に作成したものです)

文章のまどろっこしさを解消する

大学に入ってから、ブログやSNS、バイト先でレポートを書いたりすると自分の文章自体がいつもまどろっこしい感じていた。

最近ようやくその原因と解決策を知れたので、記しておく。


まどろっこしさの最大の原因は、文章を字面で考えて書こうとしているからだった。

伝わる文章は、読んだときに読者のあたまの中でイメージが湧く。

これがいい文章。

自分はこれまでとりあえず文章を書くだけ書いて、文字上で考える癖をつけていた。
確かにこの書き方だと、学校の読書感想文のように作文用紙を埋める作業にはもってこいのやり方だ。

しかし自分が適当に思考回路を展開しているだけで、本当にその文章が相手に伝わるものかは別の次元の話になる。

埋めることを目的にした文章と、相手に伝わることを目的にした文章。
そもそも取り組み方が全く違う姿勢になってしまっていた。

猫背と一緒で自分の姿勢は、案外気づかない。
言われてみて、たしかにそういう考え方がこびりついていたのだと気付いた。

2017終了予告

はてなさんにメールで「そろそろ書かへん?」って言われて気づきました。

あ、こんなブログあったな、、と。

そして2017年もそろそろ終わるな、、、と。









というわけで、今年も12月に1年を振り返る総集編のブログを書きます。たぶん。

そのための前準備、というかせっかくなので2016年に書いていたブログを読んでみたいと思います。









うんうん。











そうやなーそういうこと考えていたな。













へー。なるほど。













うん。













うん…。













うん……。














…ややこしいw













ややこしい!!!







なんでこんなややこしい感じで考えているの?!
悩みすぎじゃね?笑
ってか、多分こんなブログ書いても読者には何一つ伝わらねーよww






よくこんなブログ書いてたなー笑
Windowsならゴミ箱に捨てて、空にするボタン押されてるよ、これ。


http://121ware.com/qasearch/1007/doc/answer/image/014/014411/014411h.png



はい。
これであなたの時間もまた少し無駄にしてしまいました。
もうこのブログは見ないでください。笑
こうして自分の恥ずかしい思考履歴を見せないように、と追いやっています。笑




まぁ、2016のブログの復習と2017何やったか、今度上げときます〜。
現場からは以上です。

22になりました

つい先日、22歳になりました。

お祝いのメッセージを送っていただいた皆さん、本当にありがとうございます。
お一人お一人、LINEやSNS、Slack、メール等でご連絡いただいたものを読ませて頂き、ご返信させて頂いています。返信まで少し時間がかかってしまうかもしれませんが、連絡できるせっかくのタイミング。その方の顔を思い浮かべながら時間をかけてお返事させてください。

22歳になった感想としては、
「早い、とにかく早い。」

しかしつい先日まで、大学生になるまでは時間の流れがとにかく遅く感じていました。
早く大人になりたい。大人になることを待っていたのです。

遠足でもクリスマスでも誕生日でも、待つことはとても長く感じます。
行きの飛行機は長く感じるのに、帰りの飛行機は早く感じる。
もしかしたら今の自分の人生は既に帰りの飛行機かもしれません。

私が会津にいる時間は短くて4年。
それ以上いたら自分の賞味期限は切れるし、会津にとってもそれは良くない。
そう意味の分からない直感を信じて、会津大学に入学した当初から数年後には会津を出ていくことを決めていました。

奥ゆかしく古くを重んじる会津の風土から
杉井雄汰は何を学び取り、この4年で残したのか。

22歳の3/4を占める最後の会津生活。
まさに今後活躍が期待される後輩たちの成長にとって
私は何を手助けできるのか、試されています。

毎日寝ることが悔しいほど惜しい1秒1秒の時間を使って
私ができる恩返しを続けていきます。

まだまだ未熟で、ご迷惑をかけてばかりですが、
少しでも一緒に笑えるように自分の肉体を捧げていきますので、
よろしくお願いします!

2017年8月14日 日課

自分はいま、幸せだろうか。

これを毎日、正直に答える。
自分はこれが得だと思って行動するタイプ。
損なことをしたくないと考える。

しかし、頭脳だけで行動し続けていると、
気持ちが付いてこない場合も中にはある。

得なのはわかるが、本当にそれが良いのか。
名誉、お金、快楽。
それらを追求した先に、必ずしも幸せは待ってはいない。

無視しがちな気持ちを中心に満足のいく生き方を続けていきたい。

news.yahoo.co.jp

洗礼を受けた

2017年3月5日に洗礼を受けた。
自分がそこで体験した経験を後のために書き記す。

洗礼を受けるキッカケ

洗礼自体を受けようと思ったキッカケは、私がクリスチャンになって2週間後の礼拝のときだった。
端的に言うと神様の存在を肌で感じたからだった。
実際、礼拝に参加する前はとても冷たかった手が、温もりで満ちていた。

賛美歌を歌っている最中には、誰かと抱き合っているかのような温もりを感じていたのである。
これこそ、神様が近くにいて自分の心の奥底から恵みを与えているものだと確信した。
まさに愛そのものに触れた瞬間だった。

その礼拝以来、どこへ行っても自分の心には満足感が漂っていた。

物欲しさにこう言っているのではありません。
私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。

自分の側に神様は常にいてくれている。
それを感じ、今度は肉体とクリスチャンとして信仰を持っていることをまわりに示すために洗礼を受けることを決意した。

洗礼当日

自分自身は洗礼を受ける直前まで全く緊張も何も感じていなかったし、
そもそも内側で大きな変化を既に遂げているので、洗礼自体は形式的なものでまわりに見せるものだと思い、あまり何とも思っていなかった。
しかし周りの人たちから「おめでとう!」と事あるごとに言って頂き、自分は神様と対面し生まれ変わるのだと確信した。

洗礼自体は教会内にあるプールにて行われた。
3月上旬で水に浸るのは、正直とても寒かった。
自分が教会に通いだして洗礼を受けるまでの行いをアナウンスしてもらい、洗礼前にお祈りを行った。

すると明らかな変化が起こった。
目を閉じているのに周りが見えるのだ。
明らかにオカシイ。矛盾でしかない。

そして水に浸かる。
見えるのだ。水の中から外の世界が。
まるで水中カメラを天井に向けて指し示したかのように、光と水に包まれる光景が目の前に広がっている。

そして耳元でささやかれた。
「私はお前を認めたのだ。」と。

その声を耳にしたとき、自分は既に洗礼を終えていた。
と同時に何ともいえない高揚感と、激しい温もりが全身を覆った。
身体から湧き出てくるエネルギー、感謝、大喝采の拍手音。

生まれたときに得た祝福を目の当たりにした。

と、同時に涙が止まらなかった。

これまで自分が犯してきた罪に対する涙。
今、神様が私を許し、神様の子として認めてくれたことに対する感謝の涙。
周りが新たな私の誕生を祝ってくれて嬉しい涙。

これまでの人生の中で、最も幸福だと感じた瞬間だった。

もはや最初に水に浸った寒さは微塵も感じない。
むしろ全身を包む温もりの存在を感じ、私のなかに、今精霊が降りてきたのだと理解した。

それは私に導きと力を与えるだけでなく、人の持つ精霊の強さや真実は何か分別のつく視点が備わった気がする。
神様に従い、これからは生きていく。

今日は長くて120年程度の人生の中で、大きな一日になった。間違いなく。