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スキンシップ入門中

何でもそうだけれど、自分のやることに対して違和感を覚えた瞬間にそれは自分にって無理をしている。

例えば相手に対してキツい言葉を投げかけたとする。そのときに「あ、悪いことしちゃったな」って感じたら、それは自分自身に100%ピッタリ当てはまった言葉を投げかけたということ。

こういう自分になりたいけれど、ここにはなれないなーと思ったらそれは無理なわけで。

例えば明石家さんまさんみたいに明るく話したいけれど、あそこまでは流石に無理だなー。自分で話している想像ができないなーと思ったら、そこには辿りつけないわけで。

ちなみに明石家さんまさんみたいな明るさは無理だな。だって俺は根暗だし。と考えた場合は、無理をしているのではなく、自分自身成長する意欲がないのと同じである。
そこを捉え間違えると、何も成長できない人間になる。

本を読んで得た技術を真似て、やってみて違和感のある話し方や接し方はそれは自分に合っていない技術を習得しようとしている。やればやるほど相手は引いてしまう無駄な練習。

だからこそ、自分にとってどのようなスキンシップができるのか、1から考える必要がある。だからこそ、分析が必須になってくる。


とりあえず、語りで価値を生み出す人間になろうとしているんだね。

自分探しの旅

しても意味ないよ。
何も考えていないと。


自分探しの旅とは

個人的には「自分探し=自己分析のための1つのやり方」だと考えている。
将来の夢が思いつかないとか、自分って何みたいな迷っているときにやるものだと思う。

でも自分探しはやって意味のある人と、やっても意味のないただの小旅行に終わる人もいる。別に楽しかった思い出をつくるためならやっても意味があるのだと思うけれど、目的は本当にそれなの?


自分探しのやる目的

自分探しの旅ってのは、自分のゴール地点を探すための旅である。

例えば自分はどういう価値観を持っていて、どういう考え方をするのか、これまでの経験は何だったかなど、そういう自分の中を探す分析のために自分探しの旅を行うのは意味がない。多分満たされないと思う。

最終的に自分はこういうところに辿り着きたい。そのゴールは何かを探す旅こそ、自分探しをやる目的だと思っている。

もちろん、旅をすることによってこれまでにこういった経験をしてきた、こういう価値観を自分は持っているなど、外部からの刺激を受けることで確かめられる良さもある。しかし、それはゴールとなる場所が見つかって初めて自分の持っているアイテムは何か、意識し始めているということ。つまり、それを感じている時点で自分の中でのゴール地点はどこか既にわかっているということである。それが言葉に出来ていないだけの場合が多いが。

「思考プロセス」というブログ記事でも書くが、「考える」ということは思考するプロセス全体を指す。
自己分析も、今の自分は何が出来て、辿り着きたい場所はどこか、それを把握した上で何をするのか、考えるという思考プロセスが必要となる。それをせずに「自分ってなんだろう」と悩むのは、ハッキリ言って時間の無駄。
このときに辿り着きたいゴール地点が自分の中で見つからない、知らない場所にあるとき、それを具体的なものに置き換えることができて初めて自分探しの旅が完了することになる。

だから色々な場所に行って、俺はここに住みたいと思う。それでも自分探しの旅は成功したといえるかもしれない。でも自分自身の到着地点ってのは、人間としてどうなりたいか、ということに近いので、この地に住む人=到着地点とは思えない。住んだとしても住み始めてからも自分探しは続けていることになるだろう。(自分も大学を実家から遠方地にした経験もあり、実感している。)

なので色々な場所に行くことを目的とするのではなく、様々な人間と出会うことこそ自分探しの旅で最もやるべき内容だと思う。他の人と出会いつつ、どういう人になりたいのか、師匠を探す旅として、価値観を見つける旅として、自分と外部との交流として、自分探しの旅をすると、その旅は一生モノの価値があるものになるだろう。

140文字では語れない思考履歴

ブログタイトルを変えた。
これで3度目の変更になる。

最初は「超普通なブログ」
自分の考えは自分にとって超普通であり、他の人からすると異質なものであることに気づき始めた。

しかし、それほど異質でもなんでもなく、ただの世間知らずであることが続けてみて分かった。

そして2回目の変更で「言語化活動」
自分の想いを言語化することが苦手であることに気づいたので、自分の考えや想いを抽象化したり、具体化させたりしてコロコロと転がすために始めだした。

でもこれってブログだけでなくて、普段の会話でもTwitterFacebookとかでもやっているよなーと思い、3度目の変更を行うことになった。

これからのブログタイトルは「140文字では語れない思考履歴」
よくTwitterで語りきれない内容はブログに書くことをしていたので、今後もそのようにしていく形。目的は2回目のときと同じ。まさに自分のため。自己分析のため、記録のため、などなど。

「思考履歴」を「思考パターン」にしたほうが読みやすいなと思ったけど、どうせ口に出すわけじゃないしと思い、意味重視のタイトル名にした。

ま、そんな感じっす。

努力

勉強できるためにする努力もあるけれど、勉強できない状態にする努力もある。
人付き合いを良くする努力があるけれど、人付き合いを悪くする努力もある。
痩せる努力もあるけれど、太るための努力もある。

常に自分は何を努力しているか意識するだけで、なりたい自分になれる。

自由

進路や就職を考えるときに、自分は何がやりたいのか、考えさせられるときこそ、自分自身が揺らぐ瞬間はない。

特に就職となると人生の大半をその仕事に費やすことになる。
これまで様々なアルバイトを経験してきて学んできたことは、

私たちはお金でものを買っているのではない。
お金を生む時間を費やしてものを買っている。

ということ。
不用意にお金を生むことに励むと、その分自由が失われていくということ。
簡単に社長になればいいと言う人もいるが、社長は社員の時間を使わせてお金を生んでいる。そのことに気づくと、自分のやりたいことの目的とは一体何なのか、本当に価値があるのか、上の立場ほど考えなければならないと思う。
これは自分が上の立場になってようやく気づけたことだった。

豪華な飯もいいけれど、それよりも自分は自由がほしいな。
そういう思いが次のステップに活かすことができれば、どんな場所に行っても最高だと思っている。

本質的な話と抽象的な話

「本質と抽象って違うよね」

最近、勘違いしていたことだと思う。
本質的な議論をしたいと、常日頃考えているけれど、
いつの間にか、抽象的な内容を頭の中で飴玉のように
転がしていることが好きになっていた気がする。

「本質と抽象って違うよね」

この言葉が心のなかでささやかれたキッカケは、
小さな子どもたちと遊んでいたとき。

「楽しい、ワクワクする、次もやってみたい」

こうした無邪気な子ども心は、
年を取った僕でも、見ているだけでウキウキしてしまう。

なんだか、それってすごく大切なことな気がするんだなぁ…。


本質の意味はGoogleで調べてみると

そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素。

と出てくる。

人間にとって、欠かせられない大切なことを
子どもたちに教えられた気がする。

おくびょうな人

ぼくはおくびょうな人間なので、
よく初対面な人に「自分、とてもおくびょうなんです」
と申し訳程度に話すことがある。

そうしたら、おくびょうだと思い込んでいる人に
「自分でおくびょうと言える人は、おくびょうじゃないよ」
と言われたことがあった。

おくびょうな人は、自己主張ができないと思っているらしい。

でも、こうしておくびょうだと言っている人に対して
「おくびょうじゃない」と語りかけているじゃないか!(笑)って。

おくびょうだと、相手にこの発言をしたらどう思うか
と色々と考えすぎちゃって、何も言えないと思うんだけどな…。

おくびょうな人って、
自分をおくびょうだと言って逃げる人のことをいうのだと思う。

もう最近は、治すことよりも、どうやって向き合っていくかと考えてる。