思考履歴

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洗礼を受けた

2017年3月5日に洗礼を受けた。
自分がそこで体験した経験を後のために書き記す。

洗礼を受けるキッカケ

洗礼自体を受けようと思ったキッカケは、私がクリスチャンになって2週間後の礼拝のときだった。
端的に言うと神様の存在を肌で感じたからだった。
実際、礼拝に参加する前はとても冷たかった手が、温もりで満ちていた。

賛美歌を歌っている最中には、誰かと抱き合っているかのような温もりを感じていたのである。
これこそ、神様が近くにいて自分の心の奥底から恵みを与えているものだと確信した。
まさに愛そのものに触れた瞬間だった。

その礼拝以来、どこへ行っても自分の心には満足感が漂っていた。

物欲しさにこう言っているのではありません。
私は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。

自分の側に神様は常にいてくれている。
それを感じ、今度は肉体とクリスチャンとして信仰を持っていることをまわりに示すために洗礼を受けることを決意した。

洗礼当日

自分自身は洗礼を受ける直前まで全く緊張も何も感じていなかったし、
そもそも内側で大きな変化を既に遂げているので、洗礼自体は形式的なものでまわりに見せるものだと思い、あまり何とも思っていなかった。
しかし周りの人たちから「おめでとう!」と事あるごとに言って頂き、自分は神様と対面し生まれ変わるのだと確信した。

洗礼自体は教会内にあるプールにて行われた。
3月上旬で水に浸るのは、正直とても寒かった。
自分が教会に通いだして洗礼を受けるまでの行いをアナウンスしてもらい、洗礼前にお祈りを行った。

すると明らかな変化が起こった。
目を閉じているのに周りが見えるのだ。
明らかにオカシイ。矛盾でしかない。

そして水に浸かる。
見えるのだ。水の中から外の世界が。
まるで水中カメラを天井に向けて指し示したかのように、光と水に包まれる光景が目の前に広がっている。

そして耳元でささやかれた。
「私はお前を認めたのだ。」と。

その声を耳にしたとき、自分は既に洗礼を終えていた。
と同時に何ともいえない高揚感と、激しい温もりが全身を覆った。
身体から湧き出てくるエネルギー、感謝、大喝采の拍手音。

生まれたときに得た祝福を目の当たりにした。

と、同時に涙が止まらなかった。

これまで自分が犯してきた罪に対する涙。
今、神様が私を許し、神様の子として認めてくれたことに対する感謝の涙。
周りが新たな私の誕生を祝ってくれて嬉しい涙。

これまでの人生の中で、最も幸福だと感じた瞬間だった。

もはや最初に水に浸った寒さは微塵も感じない。
むしろ全身を包む温もりの存在を感じ、私のなかに、今精霊が降りてきたのだと理解した。

それは私に導きと力を与えるだけでなく、人の持つ精霊の強さや真実は何か分別のつく視点が備わった気がする。
神様に従い、これからは生きていく。

今日は長くて120年程度の人生の中で、大きな一日になった。間違いなく。